歴史・由緒
西根神社
西根神社の成り立ち
西根堰と古河善兵衛重吉、佐藤新右衛門家忠は深いかかわりがあります。
西根堰を開削した後、古河善兵衛重吉と佐藤新右衛門家忠の死を嘆き悲しんだ人々が、日夜墓参し、線香の煙は絶えることがなかったといいます。いつの頃からか、湯野村 に堂庵が建てられ、二人の肖像画を掛け、縁日を7月23日と定めて、供養祭が行われるようになりました。
1885年(明治18年)、伊達・信夫郡長柴山景綱が、「両偉人の功績誠に大なるものなり。須らく神社を創建し、偉霊を祭神と仰ぎ、郷民をして一層敬虔の誠を捧ぐるものなり」と進言し、本格的な神社造営が計画され、西根郷三十三ヶ村4,231人の発願にて官許を得て、「信達総鎮守・郷社西根神社と尊崇し、以て定時の祭典を行い、偉業を不朽に伝ふ」として1887年(明治20年)1月、二人の偉霊を地下深く鎮め、豪壮なる社殿が建立されました。以来、祭礼には貴族院議員・県知事をはじめ関係町村長・大地主等の他、当地方名士が一堂に会し、席番も定められました。その人たちは皆、立派なひげをたくわえていたため「ヒゲの祭り」と称され、大変格式の高い祭りとされました。その後も参拝者は絶えることなく、西根堰への感謝と御祭神の徳を偲び、祭礼には数万の参拝者でにぎわい、地方随一と称されました。
髙畑天満宮
髙畑天満宮について
髙畑天満宮の名は、湯野宇高畑の地に鎮座していることに由来し、江戸時代華道・お作法の大家茨木峯月によって、京都の北野天満宮より文道の守神として勧請されました。
寛政4年(1792)6月、湯野村の支配が三河国(愛知県)刈谷藩の飛び地支配となり、その為この地に湯野陣屋が建てられることになり、屋敷内に祀られていた天満宮を移動しました。
ところが、着任した代官を始め陣屋役人が次々に大病に見舞われ、占いによって高畑天神の祟りであるとされました。代官は、すぐに天神社を元の場所に移し、丁重な祭りを盛大に行い幟を奉納しました。するとたちどころに病も治まったといいます。それ以来、新任の代官は天満宮の祭りを必ず行い、幟を奉納することになりました。今でも歴代代官の幟と、文化10年(1813)陣屋役人が奉納した額(華表)や灯篭等が保存されています。
明治維新で刈谷藩陣屋が取り壊され、そこに西根神社が建立され、境内社になりました。昭和43年(1968)、社殿の新築移転が行われ、現在も、病気平癒・難除け・学問の神様として、信仰されています。
うそかえ祭について
鷽鳥と菅原道真
鷽鳥は、頭が真っ黒・両頬から首にかけて紅色で、綺麗な声で鳴く渡り鳥の一種で、天神様の御祭神・菅原道真公が愛した梅の木を好んで飛んでくることで知られています。
道真公が京の都から左遷され、船で九州に向かう途中、嵐にあい、その時鷽が飛んで来て船を先導し無事大宰府にたどり着いたと言われています。
のちに、道真公を祀る天神様参りの参拝者が蜂の大群に襲われた時、沢山の鷽鳥が飛んで来て、全ての蜂を喰いつくし、参拝者が難を逃れたことから、木にとまっている鷽鳥の姿を木彫りにして、天神様の縁起守りとしました。
うそかえ祭
「鷽」は「嘘」に結び付けられて、一年間に人が知らず知らずのうちについた「嘘」は、天神様の前で「誠」にかえられて罪が許されるといいます。
鷽鳥は「うそかえ祭」の御縁日に限ってのみお受けすることができ、それを授かった人は、一年間の悪しきことの起こりを良き事に替えるとされています。
「金鷽」を授かった人は一年間お金に不自由しない、鷽笛は護身用、根付け鷽は常に身につけて、受験合格・いじめ除け・交通事故防止・商売好転・病気除け等すべての災難邪気除け、好転身代わり守りとして、特別なご利益をもたらすとされております。
一年間お護りいただいた鷽鳥は感謝を込めて神社に納め、毎年新しい鷽鳥と交換する習わしになっております。
一言宮
一言宮について
御祭神は、大国主命とその御子である、言代主命(一言主大神とも言う)二柱の神様です。「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」、一言願わば良き事につけ、よからぬ事につけ、良く聞き分けてご利益を授けてくれる神様と言われております。
当宮では、まず「願い叶う門」をくぐり、一つの願い事のみ「ひとこと」一言宮にお願いし、一つの願い事が叶ったら、改めてまた一つのお願い事を致します。
分社
藤倉神社
- 所在地
- 〒969-1608
福島県伊達郡桑折町字芝堤16