西根神社・高畑天満宮

歴史・由緒

西根堰について

西根堰写真提供:水土里ネット西根堰 伊達西根堰土地改良区

古河善兵衛重吉(1576年(天正4年)~1637年(寛永14年))

古河善兵衛重吉

重吉の父は、小笠原源九郎左衛門重成といい、武田信玄に仕える信濃国更級郡塩崎城主でした。武田家が滅亡した後は、姓を「古河」と改め、米沢藩の大名・上杉景勝に仕えました。
重吉は、生まれつき聡明で、若くして藩に願い出て、会津・最上・伊達等を巡回し、信濃国の近くの国へも足を運び、その土地の様子や状況を視察しました。
1598年(慶長3年)、上杉氏の会津国替えに従い会津に移り、重吉は信夫伊達の二郡の郡代を任されました。1601年(慶長6年)、上杉氏は会津から米沢に国替えとなりました。重吉は福島上倉町で職務につきましたが、仕事に対してはとても積極的で、明快に判断を下し、時には人の意表を突く行動をとり、常に人々の声を聞いて政治に反映させました。
その中で重吉は、水がないばかりに米や野菜を作れずに貧しい生活を送っている人々の窮状を知り、私財を投じて西根堰をはじめ、水が不足している地域に次々と用水路をつくりました。その水によって田畑は潤い、たくさんのお米がとれるようになり、住民の生活は豊かになりました。

このほか、阿武隈川では舟の交通や運輸などをすすめ、産業を発展させました。また人々が安心して暮らせるよう、阿武隈川があふれて洪水になることを防ぐために堤防を造り、洪水の時に住民を救済するための避難場所としてを作って、経文66部を奉納しました。その結果、度々洪水に襲われましたが、多数の人命が救われたのです。重吉の没後、1770年(明和7年)に、住民は重吉の徳を偲んで、その壇上に愛宕堂を建立しました。治水事業以外にも、重吉は康善寺(福島県福島市五月町)や黒岩虚空蔵堂等数々の寺院を建設しました。
新しい農地の開発に力を尽くした重吉は、1637年(寛永14年)、藩の召喚に応じて米沢に向かう途中、李平(すももだいら)で割腹しました。遺骨は康善寺に葬られています。

  • 信濃郡更級郡塩崎村:現在の長野県長野市
  • 米沢藩:現在の山形県東南部置賜地方
  • 信夫郡:現在の福島県福島市
  • 伊達郡:現在の福島県伊達地方
  • 郡代:地方の行政官で、領主に代わって徴税や司法などの職務をおこなう人
  • 壇:祭やその他の儀式を行うため、一段高くしつらえた場所
  • 李平:現在の福島県福島市庭坂

佐藤新右衛門家忠(1573年(天正元年)~1637年(寛永14年))

佐藤新右衛門家忠

家忠は桑折に生まれ、一族は上杉景勝に仕えており、伊達西根郷四十ヶ村を支配していました。
1589年(天正17年)、家忠は仙道福原の戦いに17歳で初陣し、その勇名をはせました。29歳の時には、史上に名高い松川の合戦に参加し、率先して一族郎党を指揮し、伊達政宗を敗走させた奮闘ぶりには目覚ましいものがありました。しかし、状況はどうにもならず、藩主景勝は家康の軍門に入り、会津百20万石から米沢30万石に国替えとなりました。しかし、家臣5,000人はそのまま召し抱えたため、藩の財政は窮乏に陥っていました。
久しく続いた戦乱で人々はちりぢりになり、領内は荒廃するばかりでしたが、家忠は伊達西根郷四十ヶ村の復興に努めました。土地は高所にあって乾燥しており、水利に乏しく、復興が容易ではないことを嘆きながらも、逃散した農民を呼び寄せ、生活の安定のために尽力しました。次第に、帰農する人が増え、その功績に対し特別百石の加増を受けました。
家忠は武勇の誉れ高く、生まれつき聡明で住民にも親しまれ、事に当たっては決断力があり、忍耐強く測量技術にも優れていたといいます。

家忠は、祖先以来の夢でもある西根郷に水を導きたいと、山野を歩き、計画を立て、まずは下堰工事に着目して米沢に出府し、普請見積書を提出しました。藩主上杉景勝は名君として名高く、すぐに計画が認可され、西根下堰が開削されました。続いて、西根上堰工事の計画を立て、古河善兵衛重吉とともに開削を行いました。
長く住民の生活の安定と農家の繁栄に寄与した家忠は、1637年(寛永14年)、病気によって亡くなりました。遺骨は大安寺(福島県伊達郡桑折町)に葬られています。

  • 初陣:初めて戦に参加すること
  • 水利:水の利用。水を灌漑(かんがい)・飲料などに使うこと
  • 出府:地方から都に出ること
  • 普請:土木・建築工事

古河善兵衛重吉馬上の割腹

重吉は、西根堰の工事を実施するにあたり全私財を投じましたが、それも底をつき、藩の軍用米を流用してしまいます。西根堰が完成した後、1637年(寛永14年)7月頃から、重吉は死を覚悟し、代官役宅の一室でひとり絵筆をふるい、自画像を描き上げていました。
同年12月13日、重吉は突然、藩主から出府の達しを受け、翌14日の早朝、白雪の中、山口庄右衛門・森次右衛門など数名の従者を連れ、騎馬にて福島を出発しました。重吉らが李平の本陣で休息をとっていると、召喚の理由をひそかに知って、急を知らせるべく福島へ向かう途中の、米沢の清水久左衛門と女婿多兵衛が急ぎ足でやってくるのに出会いました。二人は、米沢における事の真相をありのままに重吉に告げました。
「それは、西根疎水開削にあたって、古河(重吉のこと)は私財を投じて事業にあたったが、その資力にも限界があり、止むを得ず藩の公租に手をつけ、工事費に充当した。完成後、年々弁償の方法を講じたが、ついに藩主の知るところとなり、今回出府の上、事の申し開きを命ぜられたのであると・・・・・・」
これを聞いた馬上の重吉は、動じることなく、じっと考えて、やがて矢立を取り出し、辞世の一句をしたためました。

巌が根も透さざらめや一筋に 思いとめにし矢竹心を 丈夫が身は砕けても国の為め 尽す誠の花や咲くらん

そして、藩主より西根堰開削の功を賞して贈られた名刀月山丸で腹一文字にかき切ったといいます。山口・森等の従者は大変驚いて、左右から抱きかかえてその理由を尋ねましたが、重吉は苦しい息の下から、
「我れ願望己に成就した、死はもとより、覚悟はしておった。人は死する時に死ななければ、死に勝る恥がある。この短刀は、康善寺に納めよ」
と言い終わって合掌し、息をひきとりました。
このようにして、信達地方開拓の大恩人・古河善兵衛重吉は、1637年(寛永14年)12月14日、この世を去りました。享年61歳でした。

  • 召喚:ある場所に来るように呼びつけること
  • 矢立:筆と墨つぼを組み合わせた携帯用の筆記用具

西根神社の成り立ち

西根神社

西根堰を開削した後、古河善兵衛重吉と佐藤新右衛門家忠の死を嘆き悲しんだ人々が、日夜墓参し、線香の煙は絶えることがなかったといいます。いつの頃からか、湯野村に堂庵が建てられ、二人の肖像画を掛け、縁日を7月23日と定めて、供養祭が行われるようになりました。
1885年(明治18年)、伊達・信夫郡長柴山景綱が、「両偉人の功績誠に大なるものなり。須らく神社を創建し、偉霊を祭神と仰ぎ、郷民をして一層敬虔の誠を捧ぐるものなり」と進言し、本格的な神社造営が計画され、西根郷三十三ヶ村4,231人の発願にて官許を得て、「信達総鎮守・郷社西根神社と尊崇し、以て定時の祭典を行い、偉業を不朽に伝ふ」として1887年(明治20年)1月、二人の偉霊を地下深く鎮め、豪壮なる社殿が建立されました。以来、祭礼には貴族院議員・県知事をはじめ関係町村長・大地主等の他、当地方名士が一堂に会し、席番も定められました。その人たちは皆、立派なひげをたくわえていたため「ヒゲの祭り」と称され、大変格式の高い祭りとされました。その後も参拝者は絶えることなく、西根堰への感謝と御祭神の徳を偲び、祭礼には数万の参拝者でにぎわい、地方随一と称されました。

  • 湯野村:現在の福島県福島市

西根堰の開削

西根の土地と開削の理由

西根堰のはじまり 上堰首工写真提供:水土里ネット西根堰 伊達西根堰土地改良区
西根堰のはじまり 上堰首工

福島の県境、阿武隈川の西側に広がる台地があり、ここに点在する三十三ヶ村を西根郷と称しました。土地はよく肥えて良い土でしたが、水利に乏しく、稲田ができず、麦・粟等を植えてわずかな糧とし、幾百年の間、狐・狸の住むような大原野でありました。
1180年(治承4年)、大鳥城主・信夫庄司佐藤基治が西根堰開削を計画しましたが、奥州合戦の折に捕縛され、実現できませんでした。その後、郡主・佐藤頼信以来、六度にわたり工事に着手しましたが、ことごとく失敗に終わってしまいました。
そのまま時は流れ、慶長の時代に入ると、祖先以来の夢である西根郷導水計画が練られ、1618年(元和4年)、比較的容易な下堰の工事が着手されました。同年12月、9ヶ月間にて飯坂から国見町徳江まで13kmの西根下堰が完成し、水下十六ヶ村三百町歩の水田が開けたのです。その後、1624年(寛永元年)3月に上堰の工事に着手し、翌1625年3月、わずか一か年の歳月にて、飯坂から梁川町五十沢まで30kmにおよぶ西根上堰が完成し、九百町歩の水田が開かれました。その後全ての水田が利用できるようになるには10年を要したといわれています。西根堰通水の折には、摺上川の水は満々として用水路をよどみなく流れ、人々は老いも若きも土手の上を流れとともに駆けていったといわれるほどの喜びでした。

困難を極めた、高度な治水事業

国見町にある万部の洞門 開削痕が残っている写真提供:水土里ネット西根堰 伊達西根堰土地改良区
国見町にある万部の洞門 開削痕が残っている

数々の治水工事の中でも、西根堰の開削、特に上堰工事は困難を極めました。水路測量にあたっては、昼間は竹樋を使って高低測量を行い、夜間には提灯を点々と各所において、信夫山からこれを見て確かめていました。起伏の多い山麓を100mの等高線に沿うように水路が造られており、取水口より末端まで高低差がわずか50m(6mいって1cm下がる)で、水路の平均勾配は3,000分の1から1,000分の1で、なるべく高所を通し、灌漑面積の拡大を考慮しました。さらに、驚くことに低勾配によって水を温めてから水田に導入するという配慮までなされていました。
土木工法では、樋越しで数条の河川を横断し、あるいは、サイフォンの方法を用い、さらに数キロにおよぶ隧道工事が行われました。400年前の技術では、いかに難工事であったかをうかがい知ることができます。

  • 起伏:土地が平らでなく、高くなったり低くなったりしていること
  • 勾配:傾斜の程度
  • 灌漑:水路を作って田畑に必要な水を引き、土地をうるおすこと
  • 隧道:トンネル

困難を極めた、高度な治水事業

作業は、割普請の方式をとり、現場を11丁場に分け、一斉に工事に取り掛かりました。重吉たちは毎日各丁場に行き、人夫をはげましながら自らも「のみ」を手にし、土を掘りました。作業のはかどった組には褒賞金や衣類・食料を支給しました。また、銭のつかみ取りなどをさせ、人夫は日に日に増し、数千人を数えました。
技術的に最も苦心したのは、産ヶ沢川との合流地点で、木造の水門を作って旱魃(かんばつ)の時には水を取り入れ、洪水時には角落を外して水量を調節するという、当時としては実に高度な土木技法でした。また、最大の難所は、先人がしばしば試みて果たし得なかった数キロにおよぶ湯野村の隧道工事でした。ここはかつて、日本三大鉱山の一つに数えられた桑折の半田銀山の金坑工夫数千人が作業にあたり、岩が硬く困難なところは摺上川沿いに岩石を削り、桟橋を作って数百メートルにおよぶ木樋をかける方法が用いられ、その「のみ」跡はさざ波のように現在も痕跡が残っています。
西根堰開削は、人々を賦役に駆り出さず、人夫に給料(1日米5升くらい)を支払ったため、当時の費用にして57,400両を要しました。重吉と家忠は、全ての私財を投げ打ちましたが、その資金力にも限界があり、藩の軍用米を一時流用して工事費に充当しました。

  • 割普請:一つのものを分担して作りあげること
  • 人夫:労働者
  • 賦役:農民が、土地領主のために無償で行う労働のこと

西根堰のいま

認定証
写真提供:水土里ネット西根堰 伊達西根堰土地改良区

西根堰開削における重吉と家忠の統率力のすばらしさや、測量技術・土木工法は、現在の技術にも勝るものがあり、その綿密で正確な仕事内容にはただただ感心するのみで、全国まれにみる土木遺産群の一つとなっています。
現在、西根堰は、農・工業用水はもとより、特に家庭から流れる生活雑排水・雨雪排水路として、また、防火用水・大雨時の洪水調整など多岐にわたって活用されており、日常生活に欠かすことのできない施設となっています。
平成22年、西根堰の歴史・技術的価値が全国レベルで高く評価され、「選奨・土木遺産」に認定されました。

国見町の上堰写真提供:水土里ネット西根堰 伊達西根堰土地改良区
国見町の上堰
西根神社内にある西根堰開削史碑
西根神社内にある西根堰開削史碑

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